September 2008アーカイブ
菅原一剛写真展「Sundle Ghona シュンドル・ゴナ-美しい村-」も
残すところあと一日となりました。
おかげさまで、ぼくにとっても、とても大切な展覧会となりました。
明日は、ぼくも会場に行こうと思っています。
もしもお時間がありましたら、ぜひともご覧下さい。
あと一日ですが、お待ちしております。
先週13日に、大阪のBillboardというちょっと大人なライブハウスで、
我らがホトケさんの「West Road Blues Band」のライブがありました。
ぼくにとっても、京都拾得の25周年記念ライブ以来なので、
およそ10年ぶりの「West Road Blues Band」。
驚くことにこのバンド、未だにはっきりとしたかたちで進化しています。
中でも、現在ニューオリンズで活躍されている
山岸潤史さんのギターの音とそのタイム感がすごかった。
そして、それに絡むホトケさんの歌には
「その世界」という言葉が似合う、とても大きな世界がそこにありました。
しかも当日のサプライズは、”ムッシュ”かまやつさんの登場でした。
もちろんぼくも大ファンなのですが、ホトケさんにとっても憧れの人です。
だからホトケさんも、すごくうれしそうでしたし、
何より、山岸さんの横でギターを弾きながら歌っている
かまやつさんも、ぼくにはすごくうれしそうに見えました。
そして、そんなかまやつさんの演奏を拝見しながら、
頭の中には「超一流」という言葉が浮かんできました。
それほどに、格好いいステージでした。
そしてライブが終わって、ホトケさんと遅い晩ご飯をご一緒しました。
しかも今回初めてお会いした、あの伝説のニューヨークライブにもご同行された
津田さんに、ご馳走になってしまいました。。。
この「Live in NewYork」というアルバムは、
もしかしたらウエストロードのアルバムの中でも、
一番よく聴いたアルバムかもしれません。
すごく格好いいライブなのですが、その裏話をいろいろ聞くことが出来ました。
そう思って針を落とすと、ひょっとすると違った音に聞こえるかもしれませんね。
それにしても、この「ホトケさんとかまやつさん」
きっと誰が見てもすてきな大人に見えますよね。
何だか今日のこのブログ、いつにも増して子供っぽいですが、
「ホトケさんとかまやつさん」に比べると、
ぼくはまだまだ幼いということで。。。笑
このかまやつさんのベストアルバム、すてきですよ。
そして、こちらが噂の「Live in NewYork」
現在、丸ビルにて開催中の「Sundle Ghona -美しい村-」
その一部が募金になるという小さな写真集が販売されています。
今回の展示は、100cm X 150cmという大きなプリントを24点。
一気に横に並べることで、この世界がつながっていることを
皆さんにも、是非とも身をもって知って欲しいと思っています。
そして写真集では、蛇腹というかたちで物理的にもつながっています。
しかも、その内容が異なっているのです。
そのデザインは神野貞治さん。
そして、その印刷は小森勇人さん。
そんな仲間たちが、思いを具体的なかたちでつないでくれました。
今日、家で一人でこの写真集を観ていたら、
改めてうれしくなりましたので、改めてご案内します。
その会場の前には、紀香さんと共に参加した
「Red Cross Cow」も展示されていますので、お楽しみ下さい。
ぼくの中では、山岳写真といえば田淵行男氏。
一般的に山岳写真というと、ある種絵葉書的な写真が多い中で、
これもぼくだけの所感かもしれませんが、田淵先生の写真だけは、
なぜかとても個人的な思いみたいなものを感じることが出来るのです。
それもそのはずで、先生は写真を撮るために写真を始めたのではありません。
自身の博物学的興味の中で、最初は写真を始められました。
そして、後に先生の中で、”写真”は大きく育っていったのではないでしょうか。
そんな田淵先生のカメラであったり、テントであったり、
そして、驚くほどに秀逸な絵画と共に、安曇野の写真が展示されています。
しかも、その「田淵行男記念館」は
こんなかわいらしいわさび畑の上に建っています。
その写真の展示方法には、少し疑問が残りましたが、
そのたたずまいは、田淵先生の写真にとても似合っています。
そして今回、ぼくにとっては「お礼参り」のような訪問でした。
なぜなら上高地帝国ホテルの75周年記念として発行された写真集「神河地」は、
時間のない中で、すべて撮り下ろしというかたちで撮影を進めました。
それでも、あのようにゆったりとした内容に仕上がったのは、
ウエストンの「日本アルプス」という一冊の書籍と、
田淵行男さんの写真が、大きな指針としてあったからなのです。
しかも二人とも、上高地がある日本アルプスに大きなおもいを馳せていました。
だからその思いに大きく影響を受けた写真集が、
そんな二人の思いに少しでもつながる役割になったならば、
それはそれで、とてもうれしいことなのかもしれません。
今はまだ、上高地帝国ホテルのみの販売ですが、
まもなく東京、大阪でも購入できるようになりそうですので、
その時が来ましたら、また改めてお知らせしますね。
今回の上高地行きの大きな理由のひとつが、
待望の「サイトウ・キネン・オーケストラ」。
このコンサートは、本当に待望という言葉がふさわしくて、
今まで何度も抽選に応募しても、当たったことがなかったのですが、
遂に、その幸運がやってきました。
当日の演目は、
モーツァルト 交響曲第32番ト長調 K.318
武満徹 ヴィジョンズ
マーラー 交響曲第1番ニ長調「巨人」
場所は、松本文化会館
そして指揮者は、もちろん小澤征爾氏。
とにかく、すばらしい演奏でした。
少なくとも、ぼくは生でこれ以上の交響曲を聴いたことはありません。
特に最後のマーラー交響曲第1番「巨人」の演奏は、
小澤さん自身も、その演奏に満足されたようで、
100人近い楽団全員の元に自ら歩み寄って握手をされていました。
その姿を見ているだけでも、ちょっと感動しました。
そして当然、観客の拍手も鳴り止みません。
ぼくの隣の席のご婦人も、
「この15年の中で、三本の指の中に入るほどの演奏です!」
と大変喜んでおられました。
こんなすばらしい演奏が、毎年優先的に聴くことが出来る
松本の人々が、本当に羨ましいと思います。
ぼくが、わかったようなことを言うのも気が引けますが、
この日の演奏は、一言で言うと、
「とても真面目な演奏だった。」と言えるのではないでしょうか。
決して上手いというわけではないのです。
少なくとも、もちろん下手ではないのですが、
演奏者の一人一人の集中力はものすごいものでした。
このように丁寧で、真面目な演奏というのは、
とても美しい印象を伝えることが出来るものなのですね。
もしかしたら、それこそが小澤征爾さんの真骨頂なのかもしれません。
考えてみたら、いつの日も小澤さんの演奏の中には
「真っ直ぐ」という言葉が当てはまるような印象があります。
帰りの車の中で、マーラーの名演と言えばこれ、と言われている、
指揮がバーンスタインで、ウィーンフィル演奏のマーラーは、
もちろん、やはりとても美しい演奏でした。
しかし、今日のサイトウ・キネン・オーケストラのマーラーは、
少なくとも、そんな世界最高の演奏に比べても
それよりも、もっとあたたかくて、とても清い印象がありました。
それにしても、小澤征爾さんという人は、
正に、日本の大きな宝ですね。
今から、来年の公演が楽しみです。
いろいろあった今回の上高地。
しかも、とても大切なことの連続だったので、
珍しく、そんなひとつひとつを順番にご紹介。
ということで、まず最初に「碌山美術館」のお話しです。
以前から、行きたい行きたいと思っていながら、
この美しい美術館を訪れたのは、今回が初めて。
しかも、この美術館の第一・第二展示室は、
友人の写真家・基敦さんの父・基俊太郎氏設計によるものです。
そんな基さんのお父さんも彫刻家。
そして萩原碌山にとって、生涯の友人でもあった、
あの高村光太郎氏も、もともとは彫刻家でした。
とにかくこの美術館には、高村光太郎氏をはじめ、
碌山の友人知人たちの作品も多く収蔵されているが、
おそらく誰が観ても、碌山の彫刻は段違いに美しい。
それに加えて、この美術館にある設えのすべてが美しい。
そして、そんな美しさはとてもあたたかい印象を持っています。
この美術館の瀟洒なたたずまいはもちろんのこと、
碌山という人の、あたたかい人柄がそこにあるからではないか、
などという風に感じてしまうほどに、
美術館というより特別の場所なのかもしれませんね。
そして、この美術館で販売されている
あの土門拳氏が碌山の彫刻を撮り下ろした
「土門拳の眼」という写真集がものすごい。
とにかく、この図録のすべての写真が秀逸です。
これらの写真は、意外と知られていませんが、
あの名作「古寺巡礼」の仏像写真に負けないほどにいい写真です。
そしてここに、高村光太郎が、碌山の死後に詠んだ一編の詩があります。
美術館の屋外にも、詩碑としてありますが、
これ、ちょっといいのです。
とにかく、何度でも訪れたい美術館でした。
萩原守衛
単純な子供萩原守衛の世界観がそこにあつ
た、
抗夫、文覚、トルソ、胸像、
人なつこい子供萩原守衛の「かあさん」がそこ
にいた、
新宿中村屋の店の裏に、
巖本善治の鞭と五一会の飴とロダンの息吹
とで萩原守衛は出来た。
彫刻家はかなしく日本で不用とされた。
萩原守衛はにこにこしながら卑俗を無視し
た。
単純な彼の彫刻が日本の底でひとり逞しく生きて
ゐた。
ー原始、
ー還元、
ー岩石への郷愁、
ー燃える火の素朴性。
角筈の原つぱのまんなかの寒いバラック。
ひとりぼつちの彫刻家は或る三月の夜明けに
見た、
六人の朱儒が枕もとに輪をかいて踊つてゐ
るのを。
萩原守衛はうとうとしながら汗をかいた。
粘土の「絶望」はいつまでも出来ない。
「頭がわるいので碌なものは出来んよ。」
萩原守衛はもう一度いふ、
「寸分も身動きが出来んよ、追いつめられた
よ。」
四月の夜ふけに肺がやぶけた。
新宿中村屋の奥の壁をまつ赤にして
萩原守衛は血の塊を一升はいた、
彫刻家はさうして死んだー日本の底で。
昭和十一年 高村光太郎 作
この「Dallmeyer」という英国製のレンズは、
19世紀に開発され、その後多くのモデルが製造されました。
そして、それらのレンズ群は長くに渡って、
世界中の多くの写真家に受け入れられてきました。
しかも100年もの長い間、そのレンズ構造を大きく変更することなく
作り続けられたわけですから、開発当初の水準の高さは
それこそ、ものすごいことなのかもしれませんね。
このレンズについて、性能やエピソードなど
いろいろ教えてくださったムサシカメラの井上さんの話では、
昔はこのレンズが一本あれば、それだけで写真館が成り立った、
というほどの名声と信頼性を持った代物とのことでした。
ぼくは、そんな「銘玉」の誉れ高いレンズを使用して、
今日、初めて撮影を試みました。
しかもその方法は、その開発当時と同じ「湿板写真」です。
考えてみたら、久保さんと共に長い時間
この「湿板写真」という古典技法に取り組んできました。
しかし、それはその方法に興味があったからではなく、
もちろん、目的あってのことでした。
とにかく、来る日も来る日も、あたたかい光を追いかけてきました。
そしてその中で、ぼく達は様々な発見をしてきました。
ところが、今だから言えることかもしれませんが、
当初目指していた方法と、その感じみたいなものは、
実はまだ捉えきれていなかったのでした。
言葉で説明するとちょっと長くなってしまいそうなので割愛しますが、
一言で言うと「写真らしい写真」ということなのかもしれません。
そして今日、このレンズを手に入れたことで、
目的と、その方法と、その道具が、
ひとつの大きな線で結びついたような印象を受けました。
しかもこの太い線は、確実にずっと写したいと思っている
あたたかい「光の温度のようなもの」を撮るにあたって、
おそらく現在のぼくにとっては、
これ以上はない大きな線になっているように感じています。
しかもこの道具は、あくまでも道具の中のひとつです。
現に、ぼくは偶然という幸運も重なって、
この数年間の中で、他の方法も知ることが出来たように思います。
そしてだからこそ、それらすべての経験を生かして、
この大きな線で見えるものをしっかり見定めていきたいと思っています。
それにしても、改めて、ちょっとワクワクしてきました。