いろいろあった今回の上高地。
しかも、とても大切なことの連続だったので、
珍しく、そんなひとつひとつを順番にご紹介。
ということで、まず最初に「碌山美術館」のお話しです。
以前から、行きたい行きたいと思っていながら、
この美しい美術館を訪れたのは、今回が初めて。
しかも、この美術館の第一・第二展示室は、
友人の写真家・基敦さんの父・基俊太郎氏設計によるものです。
そんな基さんのお父さんも彫刻家。
そして萩原碌山にとって、生涯の友人でもあった、
あの高村光太郎氏も、もともとは彫刻家でした。
とにかくこの美術館には、高村光太郎氏をはじめ、
碌山の友人知人たちの作品も多く収蔵されているが、
おそらく誰が観ても、碌山の彫刻は段違いに美しい。
それに加えて、この美術館にある設えのすべてが美しい。
そして、そんな美しさはとてもあたたかい印象を持っています。
この美術館の瀟洒なたたずまいはもちろんのこと、
碌山という人の、あたたかい人柄がそこにあるからではないか、
などという風に感じてしまうほどに、
美術館というより特別の場所なのかもしれませんね。
そして、この美術館で販売されている
あの土門拳氏が碌山の彫刻を撮り下ろした
「土門拳の眼」という写真集がものすごい。
とにかく、この図録のすべての写真が秀逸です。
これらの写真は、意外と知られていませんが、
あの名作「古寺巡礼」の仏像写真に負けないほどにいい写真です。
そしてここに、高村光太郎が、碌山の死後に詠んだ一編の詩があります。
美術館の屋外にも、詩碑としてありますが、
これ、ちょっといいのです。
とにかく、何度でも訪れたい美術館でした。
萩原守衛
単純な子供萩原守衛の世界観がそこにあつ
た、
抗夫、文覚、トルソ、胸像、
人なつこい子供萩原守衛の「かあさん」がそこ
にいた、
新宿中村屋の店の裏に、
巖本善治の鞭と五一会の飴とロダンの息吹
とで萩原守衛は出来た。
彫刻家はかなしく日本で不用とされた。
萩原守衛はにこにこしながら卑俗を無視し
た。
単純な彼の彫刻が日本の底でひとり逞しく生きて
ゐた。
ー原始、
ー還元、
ー岩石への郷愁、
ー燃える火の素朴性。
角筈の原つぱのまんなかの寒いバラック。
ひとりぼつちの彫刻家は或る三月の夜明けに
見た、
六人の朱儒が枕もとに輪をかいて踊つてゐ
るのを。
萩原守衛はうとうとしながら汗をかいた。
粘土の「絶望」はいつまでも出来ない。
「頭がわるいので碌なものは出来んよ。」
萩原守衛はもう一度いふ、
「寸分も身動きが出来んよ、追いつめられた
よ。」
四月の夜ふけに肺がやぶけた。
新宿中村屋の奥の壁をまつ赤にして
萩原守衛は血の塊を一升はいた、
彫刻家はさうして死んだー日本の底で。
昭和十一年 高村光太郎 作